ファイナンス・オフィサー/ Finance Officer
バンコク事務所勤務
開発途上国を支援する仕事に携わりたいという漠然とした考えが芽生えたのは、幼少期に過ごしたインドネシア・ジャカルタでの経験が多大なる影響を及ぼしている。当時、アジア通貨・金融危機を目の当たりにし、政情不安や治安の悪化が懸念され、扶養家族にあたる母と私は強制的に右も左も分からない中、緊急一時帰国を命じられた。真夜中に車でスカルノ・ハッタ国際空港まで速やかに移動する際、普段の活気を失った静寂する街があまりにも不気味で、その光景は20年以上経った今でも鮮明に脳裏に刻まれている。
大きな混乱を招いたアジア通貨危機の要因を知ったのは、大学生のときである。大学は渡米し、必修科目として経済学の基礎を学んだ際に、アジア通貨危機で影響を受けた東アジア諸国のうち、為替の下落率、インフレ率、国内総生産のマイナス成長率でインドネシアが最も最悪であったデータが紹介された。危機によって生じた失業者の増大、そして貧困層の拡大はどう対処すべきであったのかを問ううちに、持続可能な開発と経済成長の確立を目指す国連で将来働きたいと考えるようになった。ただ実際のところ、国連が新卒を採用することはほぼ皆無であると耳にし、まずは社会人として職務経験を積むことを優先すべきだと考え、大学卒業後は、ワシントンDCでアメリカ法曹協会(ABA)へ就職し、旧ソビエト連合国の司法制度の独立や強化などを支援管轄する事業に従事した。
世界銀行への転職が決まったのは突然のことであった。それまで世界銀行グループの幾つかのポジションに応募はしていたが、面接へと辿り着くことはなく、立ちはだかる『国際機関』の厚い壁を感じていた。そんなある日、知人を介してある世界銀行のマネジャーと面談する機会があり、欠員が出たためすぐに即戦力になってほしいと依頼された。突然舞い降りてきたチャンスに高揚感を覚えながら、入行後は積極的に仕事に取り組む毎日であった。キャリア形成を考えたのちに世銀からIFCへ異動することとなるが、約1年強ワシントンDC本部で勤務した経験や、当時世銀で構築した人的ネットワークは、IFCにおいてもこれまでの自身のキャリアに繋がる基盤となっており、これまで幾度となく私の社会人生を大きく変えてきたように思う
私は現在、タイのバンコク事務所に在籍しており、IFCの経理部の一員として、財務会計、管理会計業務を中心にマネジメントのサポートを行っている。これまで中東・北アフリカや東アジア地域を主に担当し、ワシントンDC本部も含めると、タイは6か国目の勤務地となる。周囲の上司や同僚からは、ストレス耐性が高い方だと言われるが、私はマイペースを維持しながら、与えられた仕事を丁寧にこなし、また管轄外の仕事であっても、将来性を考えたうえで様々な仕事やイニシアチブに参加するようにしている。さらに、職員の多様性(ダイバーシティー)を尊重するうえで、高いコミュニケーション能力を身につけることが必須であると考え、異国出身の同僚から、歴史、思考、文化、ビジネスマナーを学んだり、日々勉強を心掛けている。何事も率先して行動し、職場で活発にコミュニケーションを図ることによって、自然と会話や新しい『出会い』が生まれ、新たな可能性や方向へと導かれたりする。私がこれまで居住地や担当地域を変えてきたのは、そういった『出会い』から生まれたチャンスを一つひとつ大切にし、コンバージョンしていった結果のように思う。
IFCや世銀に限らず、『国際機関』はとても独特で、安定志向ではなく挑戦し続けるタフな精神力を持った人が活躍できる場所ではないかと思う。自身に与えられた仕事はもちろんのこと、率先力や積極性が必要な場所でもあり、時折、トライ・アンド・エラーを常に繰り返すような研究者のような気分になる。私が世銀へ転職できたのは、運が良かっただけと感じる一方で、幼少期に芽生えた願望の実現に向けて、スキルアップを心掛け、国際機関で必要とされる人材になるための努力を怠らなかったことが実を結んだのではないかと思うこともある。また、私がそうであったように、『出会い』はキャリアの可能性や視野を広げる上で大変重要な要素であると確信している。職種、分野、転職先にかかわらず、全ての出会いを大切にし、時には今までの出会いを振り返ることで、進むべきキャリアの方向性が見えてくることもあるのではないだろうか。